朱子が『孟子』を注釈したものが『孟子集注』です。「全訳全注『孟子』朱子注」は『孟子集注』を全訳全注したものです。しかし訳注者が朱子の注釈に納得しない所は、他の先賢の注釈を参考にし、訳注者が最も納得する形で『孟子』を解釈しています。そのため先賢の引用もかなり見られます。全四巻であり、各巻が収録している章句は次のようになっています。
第一巻 | | 梁惠王章句上 | 梁惠王章句下 | 公孫丑章句上 | 公孫丑章句下 |
第二巻 | | 滕文公章句上 | 滕文公章句下 | 離婁章句上 | 離婁章句下 |
第三巻 | | 萬章章句上 | 萬章章句下 | 告子章句上 | 告子章句下
|
第四巻 | | 盡心章句上 | 盡心章句下 |
この本は『孟子』で現在を解こうとしています。『孟子』を現代に使おうとしています。
この本はさらに下記のような特徴があります。
1 『孟子』の本文と朱注 (朱子の『孟子』の注釈) にすべて番号を振っています。これがために、例えば通し番号167-5と指定すれば、どこを指すのかが容易にわかり、検索に非常に便利になりました。
2 訳はできるだけ自然な日本語でし、訳だけ読んでも孟子の主張が理解できるようにしています。
3 『孟子』本文、朱注の白文、書き下し、和訳の上にさらにピンインも載せています。訳注者は漢文はできるだけピンインで読むべきだという持論があり、できるだけピンインで読んでもらうためです。
4 語句の説明をするのに、大漢和辞典の例文でしているものが多いです。
5 最初から読まずに興味のある所から読んでも意味がわかるように、同じ語句の説明を繰り返ししています。〜を参照のような説明はほとんどしていません。
6 訳注者は言葉の解釈は実際に使う生きた例文の中ですべきであり、辞書の言う漢字の意味ですべきでないと考えています。そのため似た用法の例をたくさん挙げています。
第一巻は500部限定印刷、第二巻、第三巻、第四巻は1000部限定印刷です。
見本として、「全訳全注『孟子』朱子注 第二巻」の第七編「離婁章句上」をインターネット上に公開します。下記をクリックして下さい。
全訳全注『孟子』朱子注 第二巻 離婁章句上
全訳全注『孟子』朱子注 第二巻 離婁章句上 PDF
訳注者がこの本につけた序文を次に示します。
これは『孟子』という書物とその朱子(朱
熹
)の注釈の全訳全注である。『孟子』は四書と言われる儒学の経典の一つである。『論語』も四書の一つである。『孟子』は孟子(
孟軻
)という人物が書いたとも、孟子と孟子の弟子が書いたとも、孟子の弟子が書いたとも言われる。孟子は孔子より少し後に生まれた人物である。一説では、紀元前372年に生まれ、紀元前289年に83歳で亡くなったとされる。その学識、人格の偉大なことから、孔子に次ぐ人物とされ、亜聖と称される。
『孟子』には多くの注釈書があるが、よく読まれた注釈書は古注と呼ばれる後漢の趙岐の注釈と新注と呼ばれる南宋の朱子(朱
熹
)の注釈である。『孟子』に使われている言葉は古いため、読むのにどうしても注釈書を必要とする。だから先人は『孟子』を読んできたと言うよりも、『孟子』の注釈書を通じて『孟子』を読んできたのである。『孟子』は後世に大きな影響を与えたが、それは趙岐の『孟子』の注釈書や朱子の『孟子』の注釈書が大きな影響を与えたということである。それでこの本は『孟子』の本文だけでなく、大きな影響を与えた朱子の注釈の全文も載せ、全訳全注を施した。
朱子の『孟子』の注釈書を全訳全注しているのだから、『孟子』の本文の解釈も基本的に朱子の注釈にそっている。朱子の説明に何の違和感も覚えない所はすべて朱子の解釈にそって『孟子』本文を解釈している。しかし朱子の説明に私自身がどうしてもすっきりしない、そうだろうかと思う所がある。そこは他の注釈者の注釈を探り、私が納得する形で『孟子』を解釈している。だから『孟子』の本文の解釈は原則として朱子にそっているが、すべて朱子にそって解釈しているわけでない。
この本は原文、ピンイン、書き下し文、語句の注釈も載せているが、忙しい専門外の人がこれらをすべて読まなければならないわけでない。一応孟子がどういうことを言っているのか知っておきたいという方は、訳と孟子の現代への応用である枠で囲んである所だけを読んでくださればそれで十分である。読みやすいようにできるだけ自然な日本語で訳すように心がけた。
原文、書き下し文、語句の注釈はどうしてこういう訳になるのかの根拠を示したものである。私の訳や現代への応用に疑問を感じる方はここを見てくれれば、『孟子』や朱子の注釈をどのように解釈して、このように訳し、どうしてそのように現代に応用しているのかがわかる。
『孟子』の構成とこの本で使っている番号について説明する。
『孟子』はすべてで14篇ある。各篇は章からできている。一つの章で一つのまとまりになっており、一つの主張になっている。前後を読まなくても、その章だけを読めば、孟子のその章の主張がわかる。だから『孟子』は第一篇から読む必要はない。興味深い所だけ読む読み方でも孟子の主張の一端が十分にわかり、いろいろと勉強になる。『孟子』を読もうとする時、第一編の「梁惠王章句上」から読もうとするのが一般的である。しかし「梁惠王章句上」は政治のことがテーマであり、また一章が長い。しかも政治は君臣体制の上に立つ政治だから、今の民主主義体制と違う。それで封建主義的だとか、現代に役に立たないと思ったり、また一章が長いこともあり、読むのが嫌になり挫折することが多い。私は一章が短く、しかも身近な心のことを扱っている「盡心章句」「告子章句」「離婁章句」あたりから読むことを勧める。一章が短いから簡単に読めるし、また心のことを扱っているから身近であり、現代にも応用しやすい。
『孟子』の構成は次のようになっている。篇につけた番号が篇番号であり、1から14まである。
篇番号 | 篇名 | 章の数 |
1 | 梁惠王章句上 | 7 |
2 | 梁惠王章句下 | 16 |
3 | 公孫丑章句上 | 9 |
3 | 公孫丑章句上 | 9 |
4 | 公孫丑章句下 | 14 |
5 | 滕文公章句上 | 5 |
6 | 滕文公章句下 | 10 |
7 | 離婁章句上 | 28 |
8 | 離婁章句下 | 33 |
9 | 萬章章句上 | 9 |
10 | 萬章章句下 | 9 |
11 | 告子章句上 | 20 |
12 | 告子章句下 | 16 |
13 | 盡心章句上 | 46 |
14 | 盡心章句下 | 38 |
計 | 260 |
各篇で章の数がかなり違う。しかし各篇はそれぞれ同じぐらいの分量になっている。つまり章が多い篇は一章が短くなっている。
章番号は篇の中の章に1から番号をつけたものである。第1篇の「梁惠王章句上」は全部で7章あるから、章番号は1から7まである。第2篇の「梁惠王章句下」は全部で16章あるから、章番号は1から16まである。章番号は各篇の最初の章はすべて1になるが、章通し番号は章に通し番号をつけたものである。1から260まである。朱子の書いた『孟子』の注釈は『孟子
集注
』と呼ばれるが、『孟子集注』は、『孟子』の本文を書き、その本文の中に朱子の注釈を入れる体裁になっている。だから朱子の注釈を割り込ませた所で、『孟子』の本文は分断されるわけである。一章の中で朱子の注釈がある所で本文を区切り、それに1から番号をつけたのが章内番号である。章通し番号1なら章内番号は1から6まである。章通し番号200なら章内番号は1から3まである。識別番号は篇番号・章番号・章内番号でできている。識別番号を見ると、どの篇のどの章のどのあたりのものかということがわかる。通し番号は章内番号を通し番号にしたものである。1から1013まである。通し番号に重複はなく、『孟子』の本文のどこということを示すのに、通し番号が便利である。それでこの本ではよく通し番号を用いている。しかし例えば通し番号73と指定しても、通し番号73が非常に長い一文であることがある。すると、通し番号73のどこを言っているのかがわかりにくい。それで通し番号で指定されるものの一文を「、」で区切り、さらに1から番号をつけた。通し番号73なら次のようになる。
1對曰、2王請無好小勇、3夫撫劍疾視曰、4彼惡敢當我哉、5此匹夫之勇、6敵一人者也、7王請大之、
通し番号73-3というような指定をする。3は通し番号73の中の3の番号で始まる文ということである。この場合なら、「夫撫劍疾視曰」に特定されることになる。朱子の注釈がある所で『孟子』の本文を区切って通し番号をつけているのだから、一つの通し番号の『孟子』の本文には、かならず朱子の注釈がついている。単に通し番号だけを言ったのでは、『孟子』の本文を言っているのか、朱子の注釈を言っているのかわからない。それで朱子の注釈をさしている時は、通し番号75-6朱注というふうに朱注を入れてある。朱注は朱子の注釈のことである。朱子の注釈のことを朱注と言うのはよくなされる略である。
この本にはピンインもつけてあるが、文を「、」で区切ったものにすべて番号をつけると、この漢字のピンインはどこになるのかということもわかりやすい。
次のような現代中国語の一文がある。他昨天已経出院了 これを訓読体で読むと「他は昨天
已
に経て院を出る」である。これでは意味が通じない。辞書で調べると他は「彼」のことだとわかる。「
他
は昨天
已
に経て院を出る」とすると、前よりはおぼろげに意味ができるが、まだ不明なことが多い。「昨天」とは何なのか。「
已
に経て」とはしっくりこない日本語だ。「院」とは何なのか。もっと調べると、「昨天」は「昨日」のことであり、已経で「すでに」という意味の熟語であり、「出院」で「退院する」ことであり、「了」は完了の意味であるとわかる。だからこの一文は「彼は昨日すでに退院した」という意味だとわかる。この中国語を「他は昨天已に経て院を出る」と訓読体で読むことがどれだけの意味があるのかと思う。むしろ日本語に引きずられ混乱しただけである。それなら始めから「他」は「彼」の意味、「昨天」は「昨日」の意味、「已経」は「すでに」の意味、「出院」は「退院する」の意味、「了」は完了の意味と覚えたほうが、むしろ混乱しない。しかし「他」を「た」と読み、「昨天」を「さくてん」と読み、「已経」を「すでにへて」と読み、「出院」を「いんをでる」と日本語で読むと日本語の意味にやはり引きずられるから混乱することになる。それならピンインで読むようにすれば、まったくの外国語で日本語とは別のものと考えるから混乱しないですむ。この一文をピンインで読むと、tā zuó tiān yǐ jīng chū yuàn le である。tā は「彼」の意味、zuó tiān は「昨日」の意味、yǐ jīng は「すでに」の意味、chū yuàn は「退院する」の意味、le は完了の意味と覚えると混乱することがなくむしろすっきりとわかる。これが私が漢文をピンインで読むことを勧める理由である。
漢文は外国語である。日本語ではない。外国語である漢文を訓読体にして読むことは、外国語である漢文を日本語として読むことである。それで無理ができる。同じ漢字であっても、漢文の中の漢字と日本語の中の漢字とは使い方にずれがある。漢文を訓読体で読むと日本語の中の漢字の使い方に引きずられ漢文の中の意味とずれてくることが起こる。それで漢文の意味を取り違えることが起こる。だから漢文はピンインで読み外国語として読むのが望ましい。
漢文はピンインで読むのが望ましいとしても、漢字のピンインをいちいち調べるのは大変な手間である。それで私はこの本で孟子の本文と朱注にピンインをつけ、ピンインを調べる必要なくピンインで読めるようにした。
私達の母国語の習得の仕方を考えてみるに、最初は確かに「お母さん」「まんま」というような単語で覚えて単語で言う。しかし、じきに文で覚えて文で言うようになる。こういう気持の時はこう言うのだと文で覚えていて言葉を発するのである。単に単語だけを覚えていてもそれをどのように組み合わすのかがわからなければ文ができず、言葉にならない。外国語を習得する時も文で覚えることが大切である。「私は学校へ行く。」という気持の時は「I go to school.」と言うのだと文で覚えるのである。日本の英語教育はこれを単語で覚えさせようとすることが多い。I=私は go=行く to=~へ school=学校 と覚えさせるのである。そして次のような過程で英語を言わせようとする。
「私は学校へ行く。」という気持がある。
↓
それを日本語で言うと「私は学校へ行く。」である。
↓
日本語の単語を英語の単語に置き換える。
私は=I 行く=go ~へ =to 学校=school
だから
I school to go.
である。
↓
文法の知識でこれを並べ替える。つまり、英語は主語、述語、前置詞、名詞の順番になるから、
I go to school.
となる。
この方式の致命的な欠陥は日本語の単語と英語の単語が一対一で呼応しないことである。私は=I としたけれど、日本語は「私が」「俺は」「僕は」「俺が」「僕が」といろいろあるが、これはすべてIになってしまう。英語のgoも多様な意味を持ち、日本語の「行く」だけで言い尽くすことができるものでない。
外国語は文を覚えて習得すべきである。つまり「私は学校へ行く。」という気持がある。その気持を英語で言うと「I go to school.」だと覚えるのである。そこに日本語は介入しない。気持と英語の文を結合して覚えているだけである。
言葉というのは文で一つの意味をなす。まず文が存在するのであって、まず一つ一つの単語があって、その単語を組み合わせて文ができるのでない。単語の意味というのは、この単語はこういう文の中で使うからこういう意味だろうと後から推測したものである。辞書に書いてある単語の意味とは、その単語が使われる文をいろいろと考慮して、辞書編集者が推測したものである。極端なことを言えば、単語の意味というものはない。文の意味がある。単語の意味はその用法から推測したものに過ぎない。
外国語を学ぼうとする時、文で覚えることが大事である。英単語を覚えるとか言って、go=行くのように英語の一単語と日本語の一単語をくっつけて覚えようとするのは、愚の骨頂の学習法である。goの多様な用法は「行く」の日本語の一つの単語で言い表わすことができるものでない。英語も日本語もはっきりとした単語の意味はない。その用法がある。goを文の中でどのように使うかのほうがずっと大事である。
漢文の場合も同じで、漢字一つのはっきりとした意味はない。その漢字を使う文がある。その漢字をどのように使うのかを知るほうがずっと大事である。一つの漢字の意味は、この漢字はこういう状況、ああいう状況でこのように使うから、こういう意味だろうと推測したのに過ぎない。
私は漢字の意味よりもその漢字をどのように使うかの用法のほうが大事だと思う。それで一つの漢字が他の文でどのように使われているかを知るために、その使われている所を通し番号とともに示し、その漢字がどのように使われているのかを示した。
この本は下記の本を定本にしている。
朱熹(1974) 『四書集註』 藝文印書館
この本は語句の説明を漢文でしているのが多い。()の中に人名を書いてあるのは、その人名の著作からの引用である。正確にどの文献であるかは参考文献の所に書いてある。人名の記載がないものは、大漢和辞典の引用からの引用である。いちいち出典を書くと煩雑になるため書いていない。出典を知りたければ大漢和辞典を参照してほしい。
この本の体裁は次のようになっている。
1 篇番号 篇名 章番号 章通し番号
2 章番号 章通し番号 通し番号 章内番号
3 本文訳
4 通し番号 章内番号 章通し番号 識別番号
5 本文
6 本文ピンイン
7 本文書き下し文
8 本文注釈
99 朱注
10 朱注ピンイン
11 朱注書き下し文
12 朱注注釈
13 朱注訳
14 論説
2から3は章の一番最初にまとめて載せてある。4から14は通し番号ごとに区切って載せている。
現代出されている漢籍の注釈書は、単に漢籍を注釈するだけで終わり、それを現代に応用しようとする試みが見られない。たとえ孟子の言を正確に注釈したとしても、現代の出来事に応用できなければ、単に机上の空論、言葉の遊びに終わるだけである。孟子の目で現代を見て、現代の諸問題にどのように対処するかを考えることが非常に大事である。現代に応用して初めて生きた学問になる。私は論説の中で私の意見を述べつつ、孟子なら現代の諸問題にこのように対処するのでないかということを示した。論説は罫線で囲んで表示してある。
この本には索引はつけない。左記のURLに白文、ピンイン、書き下し文をすべてのせ、検索できるようにしてあるので、それを利用していただきたい。
https://kiboinc.com/
この私の全訳全注に対し諸賢のご意見をいただければ幸いである。
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