第一章 章番号 1 章内番号 1〜5 通し番号 1〜5
言うことのできる道は久しく続く道でない。名づけることができる名は久しく続く名でない。名のない所から天地が始まる。天地が万物の母になる。常に、無は微の極である妙を見ようとする。常に、有はその帰する所を見ようとする。無と有は同じものから出て来るが、名称は異なっている。その同じものを玄と言う。同じものは玄と名づけているが、さらに玄であり、多くの妙(微の極)の門である。

通し番号 1 章内番号 1 識別番号 1_1
本文
  1道可道、2非常道、3名可名、4非常名、
  1 dào kĕ dào 、 2 fēi cháng dào 、 3 míng kĕ míng 、 4 fēi cháng míng 、
  (2)道の(1)うべきは、(3)常の道に非ず、名の名づくべきは、常の名に非ず、
(1)う: 言う 現代日本語で「報道」と使う。報道の「道」は「言う」の意味で使っている。「みち」の意味でない。現代でも道を「言う」の意味に使う用法は残っているのである。 道、言也(道、言なり)(孟子朱注35-1)  仲尼之徒、無道桓文之事者(仲尼の徒、桓文の事をう者無し)(孟子35-2)
(2)道のうべきは、常の道に非ず: ここは「道の道とすべきは常の道に非ず」と読むのが定説である。老子の説く道は道とすることができている。「道の道とすべきは常の道に非ず」と言うなら、老子の道も常の道でないことになってしまう。太田晴軒は「道」は「従う」「由る」だとする。しかし老子の道は無為自然に従い由っている。「従い由ることのできるものは常の道でない」と言うなら、老子の道も常の道でないことになってしまう。一方「道は言うことができない」というのは老子の言う道の特徴であり、『老子』の他の箇所でも述べられている。 行不言之教(不言の教えを行う)(老子8-1) 有物混成、先天地生、寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆、可以為天下母、吾不知其名、字之曰道、強為之名、曰大(物有りて混成たり、天地に先だちて生ず、せきたりりょうたり、ひとり立ちて改(か)わらず、周行してあやうからず、以て天下の母と為るべし、吾其名を知らず、之にあざなして道と曰う、強いて之が名を為して、大と曰う)(老子25-1) 不言之教、無為之益、天下希及之(不言の教 え、無為の益は、天下之に及ぶことまれなり)(老子222-1)  不言而善應(言わずして善く応ず)(老子398 -1)  またこの章の終わりで、始と母、名無しと名有る、無と有が出てくるものを玄と名づけている、この玄は道とほぼ同じ意味である。王弼は「玄者、冥也、默然無有也、始母之所出也、不可得而名、故不可言、同名曰玄、而言謂之玄者、取於不可得而謂之然也(玄は、冥なり、黙然として有ること無きなり、始母の出る所なり、得て名づくるべからず、故に言うべからず、同じく名づけて玄と曰う、之を玄と謂うと言うは、得て之を然りと謂うべからざるに取るなり)(老子王弼注5-9) と注釈しており、玄、つまり道は言うことができないし名づけることができないと言っている。だから言うことのできるものは道でないのである。王弼も「道」を「う」と読んでいる。
(3)常: 久しい 常者久也(常は久なり)(范應元)  知和曰常(和を知るを常と曰う)(老子285-2)

王弼注
  1可道之道、2可名之名、3指事造形、4非其常也、5故不可道、6不可名也、
  1 kĕ dào zhī dào 、 2 kĕ míng zhī míng 、 3 zhǐ shì zào xíng 、 4 fēi qí cháng yĕ 、 5 gù bù kĕ dào 、 6 bù kĕ míng yĕ 、
  うべきの道、名づくべきの名は、事を指し形を造り、其常に非ざるなり、故にうべからず、名づくべからざるなり、
王弼注訳
  言うことのできる道、名づけることができる名は、事を指し形を作り久しく続くものでない。だから言うことができないし、名づけることができない。

論説
    私たちの社会は言葉を重んじる社会である。テレビ、新聞、書物、YouTube、SNS(Social Networking Service)などで人々は多くの言葉を発している。言葉で真理を言うことができるのだと思っているから人々は言葉を発信しているのである。しかし言葉は人間が生まれた時から持っているものでない。生後周囲の人が話していることから習得したものである。日本語が話されている環境で育てば日本語を話すようになる。英語が話されている環境で育てば英語を話すようになる。言葉は自分が育った環境によって得たものである。育つ環境により話す言葉が違ってくる。人間に本来備わるものが環境により変わるとは考えにくい。だから言葉は人間に本質的なものでない。本質的なものでない言葉で本質的な道を表すことができるとは考えにくい。道は言葉を超えたものである。だから言葉で言うことのできる道は真の道でないことになる。

通し番号 2 章内番号 2 識別番号 1_2
本文
  1無名天地之始、2有名萬物之母、
  1 wú míng tiān dì zhī shǐ 、 2 yǒu míng wàn wù zhī mǔ 、
  (2)名無きは天地の始めなり、(1)名有るは万物の母なり、
(1)名有る: 天地 有名者、天地是也(名有るは、天地是れなり)(太田晴軒)
(2)名無きは天地の始めなり、名有るは万物の母なり: これは老子201-1の「天下の万物は有に生ず、有は無に生ず」の言い換えである。

王弼注
  1凡有皆始於無、2故未形、3無名之時則為萬物之始、4及其有形、5有名之時、6則長之育之、7亭之毒之、8為其母也、9言道以無形無名始成萬物、10以始以成而不知其所以、11玄之又玄也、
  1 fán yǒu jiē shǐ yú wú 、 2 gù wèi xíng 、 3 wú míng zhī shí zé wéi wàn wù zhī shǐ 、 4 jí qí yǒu xíng 、 5 yǒu míng zhī shí 、 6 zé zhǎng zhī yù zhī 、 7 tíng zhī dú zhī 、 8 wéi qí mǔ yĕ 、 9 yán dào yǐ wú xíng wú míng shǐ chéng wàn wù 、 10 yǐ shǐ yǐ chéng ér bù zhī qí suǒ yǐ 、 11 xuán zhī yòu xuán yĕ 、
  凡そ有は皆無に始まる、故に未だ形せずして名無きの時は則ち万物の始めと為る、其形有りて名有るの時に及べば、則ち(1)之をし之を育て、之をととのえ、之をあつくし、其母と為るなり、言えらく、道は無形無名を以て始まり万物を成し、以て始まり以て成り其所以を知らず、玄は(2)又さらに玄なり、
(1)之をし之を育て、之をととのえ之をあつくす: 老子257 -3の引用 語釈はそこを参照
(2)さらに: さらに  又、猶更也(又、猶更のごときなり) 東山、蓋魯城東之高山、而太山則又高矣(東山、蓋し魯の城東の高山なり、太山は則ちさらに高し)(孟子朱注861-2)
王弼注訳
  有はみな無に始まる。だから形がなく名がない時が万物の始めとなる。形ができ名があるようになると、それを増やし、それを育て、それを整え、それを厚くして、その母となる。道は形がなく名がない所から始まり万物を成すが、どのようにして始まり、どのようにして成るのかはわからず、玄がさらに玄であると言っている。

論説
    ここは人間の認識できるものに対する興味深い指摘である。物を始めるのは無であり、無は名づけることができない。人間の言葉で表現できるものでなく、人間が認識できるものでない。始まったものを増やし、育て、整え、厚くするのは有のすることである。有は名づけることのできるものだから、人間の言葉で表現できるし、人間が認識することもできる。いわゆる「ひらめき」と言われるものは、無からふと心に湧くものである。なぜそういうことが湧いたのか、その機序はわからない。しかしこのふとした「ひらめき」が大きな力を持つのである。人間の学問はこの「ひらめき」で発達して来た。AI(Artificial Intelligence)が発達し、驚くほど正確な回答をするようになった。AIはAIが学習したことから回答している。AIは言葉で表現されたもの、つまり有から学習している。AIに無からふと生じる「ひらめき」はない。無から生じる「ひらめき」がある所が、人間がAIより優れる所だろう。

通し番号 3 章内番号 3 識別番号 1_3
本文
  1故常無欲以觀其妙、
  1 gù cháng wú yù yǐ guàn qí miào 、
  (1)故に常に無は以て其妙を観ることを欲す、
(1)故に常に無は以て其妙を観ることを欲す、常に有は以て其きょうを観ることを欲す: ここは「常に無欲にして以て其妙を観る、常に有欲にして以て其きょうを観る」と読む本が多い。しかしこれは「名無きは天地の始めなり、名有るは万物の母なり」に続く文である。無と有のことを主題としているのである。無欲、有欲のことでない。ここも無と有のことと考えなければ、つながりが悪くなる。またどうして「きょうを観る」のは有欲でなければならないのかと思う。ものを見るのは、心を無欲、平静にして見なければその帰趨はよくわからないはずである。「いつも欲がある立場に立てば万物が活動するさまざまな結果が見れるだけ」との訳があるが、多欲であれば、欲で目が濁り、さまざまな結果もよく見えない。

王弼注
  1妙者、2微之極也、3萬物始於微而後成、4始於無而後生、5故常無欲空虛、6可以觀其始物之妙、
  1 miào zhě 、 2 wēi zhī jí yĕ 、 3 wàn wù shǐ yú wēi ér hòu chéng 、 4 shǐ yú wú ér hòu shēng 、 5 gù cháng wú yù kòng xū 、 6 kĕ yǐ guàn qí shǐ wù zhī miào 、
  妙は、微の極なり、万物は微に始まりて後成る、無に始まりて後生ず、故に常に無は空虛にして以て其物を始めるの妙を観るべきを欲す、
王弼注訳
  妙は微の極である。万物は微に始まりて成り、無に始まりて生じる。だから無は常に空虚で、物を始める妙を見ることができることを望む。


通し番号 4 章内番号 4 識別番号 1_4
本文
  1常有欲以觀其徼、
  1 cháng yǒu yù yǐ guàn qí jiào 、
  常に有は以て其(1)きょうを観ることを欲す、
(1)きょう: 帰終(王弼注)

王弼注
  1徼、2歸終也、3凡有之為利、4必以無為用、5欲之所本、6適道而後濟、7故常有欲可以觀其終物之徼也、
  1 jiào 、 2 guī zhōng yĕ 、 3 fán yǒu zhī wéi lì 、 4 bì yǐ wú wéi yòng 、 5 yù zhī suǒ bĕn 、 6 shì dào ér hòu jǐ 、 7 gù cháng yǒu yù kĕ yǐ guàn qí zhōng wù zhī jiào yĕ 、
  徼、帰終なり、凡そ有の利と為るは、必ず無以て用と為し、(2)本づく所に(1)くを欲すればなり、道にかないて後に(3)る、故に常に有は以て其物を終えるのきょうを観るべきを欲するなり、
(1)く: 行く  之、往也(之、往なり)  有託其妻子於其友、而之楚遊者(其妻子を其友に託して、楚にき遊ぶ者有り)(孟子92-3)
(2)本づく所にくを欲すればなり、道にかないて後にる: 定説ではここは「欲の本づく所は、道にかないて後にる」と読む。欲の本づく所とは富貴のことだろうから、「道にかなうと富貴が得られる」となってしまい、富貴を得るために道にかなうようにしていることになる。これは老子の主張と矛盾する。欲入所臥(臥する所に入ることを欲す)(論衡 別通)という用法があり、これは入を之にし、臥を本にした形である。
(3)る: なる  濟、成也(済、成なり)  五霸則假借仁義之名、以求濟其貪欲之私耳(五霸は則ち仁義の名を仮借して、以て其貪欲の私をすを求めるのみ)(孟子朱注875-5)
王弼注訳
  徼は帰し終わる所である。有が利になるのは、みな必ず無で有を用い、基づく所に行こうとするからである。無の道にかなって初めて成すことができる。だから有は常に物が終わるきょうを見ることができることを望む。

論説
    凡そ有の利と為るは、必ず無以て用と為す
    これは非常に感銘深い言葉である。私たちは有からものを為しがちである。しかし心や自然の無を経由して為さなければならない。こういうデータがあるからと、それを実行する。これは有だけを見て動いているのである。データがあっても無の心でよく考える。無の心で判断して理にあたると判断して始めて実行する。データという有があっても、心という無で用いることにより、有は始めて利をもたらすのである。データという有を心の無で考えることなく用いれば必ず害をもたらす。
    テレビはなぜ人に益よりも害をもたらすことが多いのかもこれで説明できる。テレビが表示する動画は有である。たいていの人はその動画の有を心の無でよく考えることなく、その動画の有に影響されて行動する。心の無を用いていないから、テレビに動かされたその行動は理に合わず人に害をもたらす。安倍晋三暗殺事件では、山上被告のいた位置からでは、どのように撃っても安倍晋三氏が受けたような銃創はできない。それだけで山上被告が犯人でないことは明らかである。心の無を用いればテレビの言っていることに理がないのはわかるのである。しかし大半の人はテレビの動画の有のみを見て、心の無を用いていない。それでほとんどの人は山上被告が安倍晋三氏を殺害したと思っている。

通し番号 5 章内番号 5 識別番号 1_5
本文
  1此兩者同出而異名、2同謂之玄、3玄之又玄、4眾妙之門、
  1 cǐ liǎng zhě tóng chū ér yì míng 、 2 tóng wèi zhī xuán 、 3 xuán zhī yòu xuán 、 4 zhòng miào zhī mén 、
  (1)此両者は同じきに出て名を異にす、同じきは之を玄と謂う、(2)玄はさらに玄、(3)衆妙の門なり、
(1)此両者: 王弼は「始」と「母」とする。「名無しは天地の始めなり、名有るは万物の母なり」だから、「名無し」と「名有る」のことでもある。「名無し」は「無」にあたり、「名有る」は「有」にあたるから、「無」と「有」のことでもある。
(2)玄: 老子5-1、老子5-2の同を指す
(3)衆妙: 多くの妙 衆は「多い」の意味がある。 衆、多也(衆、多なり)   殺人之眾、以哀悲泣之(人を殺すことがおおければ、哀悲以て之に泣く 眾:衆の異字体)(老子169-21)

王弼注
  1兩者、2始與母也、3同出者、4同出於玄也、5異名、6所施不可同也、7在首則謂之始、8在終則謂之母、9玄者、10冥也、11默然無有也、12始母之所出也、13不可得而名、14故不可言、15同名曰玄、16而言謂之玄者、17取於不可得而謂之然也、18謂之然則不可以定乎一玄而已、19則是名則失之遠矣、20故曰、21玄之又玄也、22眾妙皆從同而出、23故曰眾妙之門也、
  1 liǎng zhě 、 2 shǐ yŭ mǔ yĕ 、 3 tóng chū zhě 、 4 tóng chū yú xuán yĕ 、 5 yì míng 、 6 suǒ shī bù kĕ tóng yĕ 、 7 zài shǒu zé wèi zhī shǐ 、 8 zài zhōng zé wèi zhī mǔ 、 9 xuán zhě 、 10 míng yĕ 、 11 mò rán wú yǒu yĕ 、 12 shǐ mǔ zhī suǒ chū yĕ 、 13 bù kĕ dé ér míng 、 14 gù bù kĕ yán 、 15 tóng míng yuē xuán 、 16 ér yán wèi zhī xuán zhě 、 17 qŭ yú bù kĕ dé ér wèi zhī rán yĕ 、 18 wèi zhī rán zé bù kĕ yǐ dìng hū yī xuán ér yǐ 、 19 zé shì míng zé shī zhī yuǎn yǐ 、 20 gù yuē 、 21 xuán zhī yòu xuán yĕ 、 22 zhòng miào jiē cóng tóng ér chū 、 23 gù yuē zhòng miào zhī mén yĕ 、
  両は、始と母なり、同じく出るは、同じく玄に出るなり、名を異にするは、施す所同じくすべからざるなり、(1)はじめに在れば則ち之を始と謂い、終に在れば則ち之を母と謂う、玄は、冥なり、黙然として有ること無きなり、(2)始母の出る所なり、得て名づくるべからず、故に言うべからず、同じく名づけて玄と曰う、之を玄と謂うと言うは、得て之を然りと謂うべからざるに取るなり、之を然りと謂えば則ち以て(3)一の玄を定むべからず、則ち是れ名づくれば則ち之を失うこと遠し、故に曰く、玄はさらに玄なり、衆妙は皆同じき(4)り出ず、故に衆妙の門と曰うなり、
(1)はじめ: 始め 首、始也(首、始なり)(釋名 釋形體 )  夫禮者、忠信之薄、而亂之首(夫れ礼は、忠信の薄きにして、乱のはじめなり)(老子194-15)
(2)始母の出る所なり: これを「始は母の出る所なり」と読む本がある。始と母は玄から出ると老子は言っている。始は母が出る所とは書いてない。
(3)一: 道 一の気  天得一以清(天は一を得て以て清なり)(老子196 -1) ここは「一」を数字の「一」と取るのが定説である。しかし「一つの玄」と読むと玄が複数あることになる。玄は道のことを言っており、道が複数あるはずはないのである。「一玄」は「一の玄」と読む。
(4)り: より から  從、自也(従、自なり) 乃知此心不從外得(乃ち此の心は外り得ざるを知る)(孟子朱注42-15)
王弼注訳
  両は始と母である。同じく出るは、同じく玄から出るである。名を異にするは、施す先を同じにすることができないからである。施す先がはじめにあると始と言う。施す先が終わりにあると母と言う。玄は冥であり、黙々として有ることがなく、始と母が出て来る所である。名づけることができない。それで言うことができない。始と母が出て来る所は同じく玄と名づける。玄と言うのは、このようであると言うことができない所から名づけている。このようであると言うならば、一の玄を定めることができない。名づけると実体を失い実体から遠ざかることになる。それで玄はさらに玄であると言う。多くの妙はみな同じものから出て来る。だから衆妙の門と言う。